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【広島東洋カープ】ファンになってしまった意外な理由とその後・・・。

広島カープ

一昨年までセ・リーグ3連覇を果たし、黄金期を謳歌していた広島カープですが、明らかにその反動だろう理由で今は最下位争いをしています。何やってんだよ!

ところで私は北海道に生まれ、一時期を除いては北海道に居続けております。そんな北海道ですが、今は「北海道日本ハムファイターズ」という”地元球団”が出来ました。

しかしその前はというと、ここ北海道は巨人戦しかテレビ中継が無かったのと(昭和のころですが・・・)、それこそ「巨人・大鵬・卵焼き」などと言われた時代の直後だったせいで、北海道民=巨人ファンという世の中でした。

実際の、野球がそれほど好きかどうかも分からない両親が巨人ファンを自任してたあたり、田舎の闇を感じざるを得ません。

そんな両親のもとに生まれた私が何故広島カープのファンになってしまったのか?簡単に言うと「貧乏」だったせいでしょう。

 

昭和男子の必須アイテム「野球帽」

時代は昭和。当時の子供たちは当り前のように「野球帽」をかぶっていました。先ほども触れたように北海道は巨人ファンが多かったので、それに比例して巨人の野球帽をかぶる子供が多数派でした。

6歳のころだったでしょうか、私も遂に野球帽を買ってもらうことになり、買いに行った母の帰りを心待ちにしておりました。母は「巨人の帽子を買ってくるね」と言い残し出かけたのです。

帰ってきた母から渡された帽子を見ると、見たこともない”赤い”野球帽でした。子供だった私の正直な心境は「・・・!?」でした。当然母に”何故か?”と詰め寄ると、「だって巨人の帽子より安かったから」と、その一言だけで終了です。

確かに当時のことを考えると、広島が「赤ヘル旋風」を巻き起こし初優勝した年です。それまで北海道で見向きもされなかった「広島カープ」の野球帽が店頭に置かれ、なおかつ安かったのでしょう。

けっして裕福ではなかった我が家ならではだったのかもしれませんが、その「節約」で私の人生の一部が決定付けられました。そう、一人のカープファン誕生の瞬間です。

 

強豪チームへと変貌を遂げた”昭和50年代”

私が野球帽を買ってもらったその年、広島カープは悲願の初優勝を果たしました。山本(浩二)選手や衣笠選手がアラサーであり、いよいよ円熟期を迎える時期と重なります。

応援しているチームが強けりゃ楽しいものです。初優勝のときは残念ながら日本シリーズで、これまた当時超強豪チームだった阪急に敗れましたが、ホント昭和50年代のカープは強く、4回のセ・リーグ優勝と3度の日本一を果たしています。

それにタレントも揃っておりました。

打線では、”広島黄金期の主砲”山本浩二、”鉄人”衣笠祥雄の2人を中心に、高橋慶彦・水谷実雄・山崎隆造・ライトル・ギャレットなどなど、上げだしたらキリがありません。

当然初優勝時のラインナップと昭和59年のラインナップは大きく違うのですが、山本・衣笠はその間ずっとレギュラーであり続けました。

投手陣も豪華で、”ノーヒットノーラン3回”外木場義郎、”伝説の21球”江夏豊、”精密機械”北別府学、”解説者としては今一”池谷公二郎や、川口和久・山根和夫・大野豊・津田恒美などそうそうたるメンバーです。

昭和54年、55年と連続日本一となり、特に昭和54年の近鉄(懐かしい名前ですが)との日本シリーズ、3勝3敗で迎えた第7戦9回裏のドラマは伝説です。

なにせ勝った方が日本一という最終戦で、1点リードの9回裏に相手である近鉄がノーアウト満塁というチャンスを作った場面ですから、並みのピッチャーなら失神ものです。

そこを抑えたドラマが「江夏の21球」というやつです。そもそもそんなピンチを作るなよ!という声もありますが、そんなことはどうでも良いのです・・・勝てたから。

 

昭和59年の日本一とその後

昭和50年代最後の年となった昭和59年ですが、開幕ダッシュに成功し、中日ドラゴンズと競った時期もありましたが最終的にセ・リーグ優勝を果たしました。

この年既に中学3年生だったこともあり、かなり明確に覚えているペナントレースでした。このころはテレビは地上波しかなく、北海道では”巨人戦”しか放送しないこともあり、ほとんどAMラジオで試合の実況を聞いていました。

特に夏場、中日と競っていた時期は熱かった。ラジオからの音声だけで想像力を掻き立て、その場面を脳内で映像化して力いっぱい応援していました。

ドラゴンズを蹴落とし無事優勝できたわけですが、日本シリーズで対戦することになったのは初優勝時に対戦した「阪急ブレーブス」でした。このチームは今のオリックス・バッファローズの前身です。

歳をとったとはいえスピードスターの福本豊が1番に座り、3番蓑田、4番(三冠王)ブーマー、5番松永という強力なチームでした。

当時は巨人戦しか放送しないうえ、パリーグなんて知る由もなかったので、”謎の恐怖感”があったのをよく覚えています。

結果から言うと4勝3敗で阪急を退け、3度目の日本一に輝きました。勝因の一つは、敵チームの4番ブーマーを徹底した内角攻めで抑えた事でしょう。

怖いことですが、それを実行できる投手がいたんですよね。

今から考えると、この年で山本浩二や衣笠が38歳を迎え、チームとしても節目を迎えていたんだと思います。この年、法政大学からドラフト1位で入団した小早川が新人王を獲得し次世代を担うのかと期待されましたが、結果的にはダメでした。

引き続き投手陣は「投手王国」といわれる陣容でしたが、次第にじり貧となり、この5年後監督に就任した山本浩二監督のもと、ファンから見ても”打撃偏重”な補強方針のもと「暗黒期」といわれる時代へ突入しました。

その間1991年にリーグ優勝を果たしましたが、日本シリーズで3連勝のあと4連敗を喫して敗戦し、個人的には「この時のトラウマ」が今もって日本一に返り咲けない理由なんじゃないかと思ってます。

 

今になって思うこと

カープ女子

その後の歴史はまたの機会に譲るとして、今もって広島カープのファンであることを誇りに思っています。

それどころか、野球に全く興味のなかった妻が「い~のち掛け~た勝負の舞台!」なんて広島カープのチャンステーマを歌えるようになり幸せです。

とはいうものの、妻は音楽や音に敏感な質で、3年くらい前でしたでしょうか「ゴーバレンティン、バレンティ~ン!」と言いながらトイレに入っていったときには閉口しました。

今年は負けが先行し、試合展開もイライラが募りますが、今の若鯉たちが花開き再び強くなる日を信じて応援しています。

そう、のめり込むことがあるって幸せなことなんです。それを教えてくれた広島カープへ感謝です、とりあえずは。

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